西安旅行·シルクロード旅行·西安観光·西安観光案内
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 中国西安観光地案内 
 

 

             中国西安観光地案内 

西安兵馬俑.西安秦始皇帝陵.西安華清池.西安大雁塔.西安城壁.

西安碑林.陝西歴史博物館.西安青龍寺.西安小雁塔(西安博物苑).

西安大興教寺.西安草堂寺.西安楊貴妃墓・西安法門寺のご案内。

 

秦始皇帝兵馬俑坑博物館~中国 西安 兵馬俑・兵馬俑観光

 

20世紀最大の発見」といわれる兵馬俑(ヘイバヨウ)は、1974年に農夫が井戸掘りの作業中、偶然見つけました。秦の始皇帝(紀元前246210)の陵墓より東へ1.5kmに位置し、約2200年前始皇帝を永遠に守るために副葬されたものです。 秦始皇(紀元前259年—前210)は中国を統一した最初の封建皇帝である。彼の陵墓は、西安市臨潼区の東6キロメトールに位置する。 

 

1974年にこの土地の農民が井戸を掘っていて偶然に発見した。秦の始皇帝が死後の自分を守るために等身大の兵馬を作らせたもので、当時の秦の軍団がそのままの形で再現されている。今西安の最大の見所になっている。

 

1974年に最初の兵馬俑坑が発見されており以來、現在までもう三つの俑坑が確認されており、それぞれに123番号を編成した。

 

三つの俑坑の中に実物の人、馬と等身大の陶俑や陶馬が合わせて約8000体がある。その中に戰車兵、騎兵や歩兵などの兵種があり、整然と隊列を組んで、あたかも巨大な地下始皇陵を守護する軍団のように見られる。

 

1号館から3号館までに約8,000体の兵馬の俑(人間が殉死する代わりに埋められた人形)がある。兵馬俑は表情も一体一体で全て異なり、武器を手にしたものもいる。また秦銅車馬展覧館もある。

 

陶俑の形象はそれぞれ異なっていて、表情・態度が生き生きして、中国古代雕塑芸術史における一つの玉と言える。秦始皇の陵墓の兵馬俑が「世界第八大奇跡」や「二十世紀考古歴史上の偉大発現の一つ」として世界の人々に好かれている。兵馬俑坑は秦始皇陵とともに国連教育科学文化機閧に世界文化遺産の名薄に登録されている。それは中国人民だけでなく、全人類の珍しい文化財である。この珍しい歴史文化遺産を効果的に保護するため、1979年に秦始皇兵馬俑博物館を設置した。

 

秦始皇帝陵(シンシコウテイリョウ)

 

初めて中国を統一した秦始皇帝の陵は、西安の東36kmのところにある。
もっと言えば兵馬俑坑のすぐ西に位置している・・・というか「兵馬俑坑」はもともと秦の始皇帝の陪葬坑だから当たり前の話だけどね・・・


「秦始皇帝」は言うまでもなく、中国が秦(しん)、韓(かん)、斉(せい)、狙(そ)、燕(えん)、趙(ちょう)そして魏(ぎ)の七雄といわれる諸国に分かれ紛争が続いていた春秋戦国時代に、他の国を併合し紀元前221年専制国家として統一を果たした人物である。この統一を果たした自に「皇帝」という称号を作った。


「始皇帝」という呼び名は、「皇帝」の地位が世代継承されるようにとの願い込めて、彼の死後「初代の」という意味を込め呼称として使われるようになったものである。
秦の始皇帝は、国家統一を果たすという政治手腕もさることながら、次々と大土木事業をも手がけた。その最たるものはなんと言っても「万里の長城」の築城だろう。


そのほかにも運河や道路などの社会基盤整備事業も次々と果たした。

驪山(りざん)の北麓にあることから「驪山陵」とも言われるこの秦始皇帝陵は中国最大のものである。


陵は始皇帝が13歳で即位したときから作り始められ、彼の死後まで、70万人の囚人を使い39年間かけて築かれた。
当時の墳墓は周囲が25km、高さは100mを超えていたと言われるが、現在は風化などにより47mしかない。
陵は一面に桃やザクロが植えられていてまさに「山」という感じだ。
始皇帝陵の本体は、地下30mの深さに350m四方の広さという、巨大な地下宮殿だといわれている。
地下宮殿には木造建築がすっぽり納められていると推測されていて、これらが腐っていなければ、それこそ世紀の大発見となる埋葬物が出てくると言われている。
しかし、埋葬されている墓室や宝物などを盗掘から防ぐためのさまざまな仕掛け(罠)が施されているため、過去にも盗掘されていないが、現代でもなお発掘が困難だと言われている。


地下宮殿は、死後の皇帝のための新たな世界を作り上げるため、墓室内には宝石をちりばめ天空(宇宙)をイメージする天井や、海や川を模して水銀が流れて大地などが施されているだろうと考えられている。
この水銀の有毒性なども考え合わせると、少なくともここ数十年は発掘される可能性は全く考えられないそうだ。
残念ながら今を生きている僕たちには、そのすばらしい地下宮殿とは想像の世界でした出会うことができないようだね。

 

華清池(カセイチ)

 

その昔、唐の栄華の中で長安郊外の驪山(リザン)の麓にある離宮だった温泉宮が、今では遺跡公園になっている。玄宗皇帝は離宮を楊貴妃にちなんで華清池と名付けた。華清池の華は牡丹のことで、絶世の美女だった楊貴妃を象徴しているのだそうだ。当時離宮は牡丹で埋め尽くされていたという。
ちなみに「池」は浴槽を意味しているらしい。白楽天の長恨歌の一節「春寒賜浴華清池(春寒く華清池に浴を賜る)温泉水滑洗凝脂(温泉水滑らかにして凝脂を洗う)・・・」が、楊貴妃と共に美人の湯としてのここの温泉を一躍有名にしたという。

公園の中に貴妃が浸かった浴槽(妃子湯/芙蓉湯)、それより一回り大きい貴妃と皇帝が混浴した浴槽(蓮花湯/九龍殿)、更には重臣達が入った大浴槽(星辰湯)と三つの浴槽が遺跡として発掘されている。その他にも宮女達の浴槽だった長湯というのが16もあったということだ。浴槽はいずれも石造りで、石畳の床を掘り下げたいわゆる温泉形式になっている。
ちなみに床の上によっこらしょと跨いで入るような浴槽は風呂形式という。当時は白玉石の豪華な飾りがついていたようだが、盗難にあったらしく今はない。

公園の売店には「貴妃出浴図」という艶やかな湯上がり美人を描いた掛軸などを土産として売っている。そこに描かれた楊貴妃は、それこそ湯気のような衣をまとい、ふくよかな姿である。「美」という文字が大きな羊を表す合成文字だそうだから、湯上がり美人はふくよかでなければならないのだろう。

驪山の中腹に泉源があり、今でもこんこんと大量の湯が湧き出している。湧出口は華清池公園の中にあり、湯気が立っていて覗くことができるし、飲泉台のような所からも温泉を流し出している。ここまではこの華清池を訪れた多くの日本人観光客が知っているところだが、国際温泉評論家の出番はその次だ。

華清宮は現代中国の政治舞台にも輝かしい1ページを飾っている。1936年12月、蒋介石南京を出発して西安に来た。その目的は楊虎城の西北軍と張学良の東北軍による共産党「討伐」が一向に捗らないことに業を煮やし、この二人の将軍を督戦するためだった。蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし、着替えもできず、裸のままで窓を乗り越え、山腹に逃走した。山はらの大きな石の隙間に隠れている時、8時頃、張学良の護衛兵が発見して捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉した。張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請した。派遣された周恩来は何度も蒋介石と交渉し、その結果第二次「国共合作」が実現した。五間庁の窓には今も当時の弾痕が残っている。山腹には記念のため、石造の部屋が建てられ、「兵諌亭」と名付けられた。

明の時代に,朱元璋は 天下の山川は,秦中が険固と号される と考えた。西安の城壁は,当時の建城ブームで,都督の濮英の主宰の下,唐代の旧皇城の基礎で再建されたものである。

 

明代の城壁は高さ12m,頂上の幅は1214m,底部幅1518m,周囲全長13.7mである。上には12m毎に櫓が置かれ,合せて98ある。西安の城壁の東西南北の城門には,それぞれ 正楼  箭楼  閘楼 の三重の門がある。城壁の外側には, 垜墻 が5984ヵ所作られ, 垜口 から矢を射ることや展望することができる。城壁の周りに,広くて深い堀があり,城門の所には吊橋がかけられている。

 

特に西門の『安定門』はシルクロードの出発点だと言われている。階段で、西門の上に上がり、城内の鐘楼が見え、2階の建物の窓口では、西側のシルクロードを望むことができた。また、人力車か自転車で、城内外の景色を見ながら、ハイキングすることも最高だ。

 

陝西歴史博物館(センセイレキシハクブツカン)

 

古都西安の大雁塔北西に位置する陝西歴史博物館は、1944年6月に創建された中国初の近代大型博物館である。前身は陝西省歴史博物館で、1991年6月には、新館も完成し、対外開放された。総敷地面積は6万5000平方メートル、建築面積は5万5600平方メートル。中央に主館、周囲に分館がある唐代風の建築群は、古代建築の趣と先進技術を融合させた上品なつくりで、民族的伝統と中国西北地方の特色を兼ね備えている。

 

陝西省は、周、秦、唐など、13の王朝が首都を置いた文物の宝庫。同博物館には、陝西地区で出土した貴重な37万点以上の文物が所蔵されている。数が多いだけでなく、種類も豊富で、貴重な品が多いことで知られている。主な所蔵品に、青銅器、唐代の墓から出土した壁画、陶磁俑、建築材料、漢唐代の銅鏡、金銀玉器、硬貨、陶磁器などがある。

 

また、書画、経典、織物、骨器、木器、漆器、鉄器、石器、印章、封泥(古代中国で、貴重品を収めた箱や竹簡木簡文書の封緘に用いた粘土塊。しばったひもの結び目などに、柔らかいうちに押印した)などのほか、近現代の文物や民族民俗文物も少なくない

 

常設陳列は「陝西古代史陳列」、歴史の流れを糸口に各時代の典型的文物3000余点を整理した陳列で、同地区の古代社会文明の発展状況を紹介している。

 

青龍寺

 

青龍寺せいりゅうじ,しょうりゅうじは、中国陝西省の古都、西安市南郊の鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られており、四国八十八箇所の零番札所ともいわれている。

その故地は、朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所であった

創建は、開皇2年(582)であり、当初は霊感寺と呼ばれた。初唐の武徳4年(621)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662)に再建され、観音寺と改められた。

青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711)のことである。

唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗円仁円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学んだ。

会昌5年(845)、会昌の廃仏によって再び廃毀された。しかし、大中6年(852)には、いったん復興を果たし護国寺と改められている。ただ、唐末五代の****によって、都の長安は急速に寂びれてしまった。そのため、以後三たび姿を消すこととなった

1982以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめた。

青龍寺は復興され、そこには空海記念碑恵果空海記念堂が建てられている。

 

小雁塔(ショウガントウ)

 

小雁塔は、西安市の南約1㎞、友誼西路南の薦福寺内にある。大雁塔と東西に対峙している。唐代の古都長安を彷彿させる建築物だ。薦福寺は唐の文明元年(684)に創建され、当初は献福寺と呼ばれていた。唐高宗の逝去後百日に、宗室皇族が高宗の冥福を祈って建てた寺院だ。小雁塔は景龍年間(707710)に修築された。美しく、彫刻も素晴らしく、慈恩寺の勇壮な大雁塔とともに光り輝く。規模が小さいために小雁塔と言われる。唐代の美しい建築芸術遺産だ。

小雁塔の底面は方形で、底辺は11.56m、一層部分の天井が高く、上にいくほど低くなる。全体の形状は丸みを帯びていて、大雁塔とは趣を異にする。密簷式の方形のレンガ造りだ。当初は15層で、高さは46mあったという。現在は13層で、高さは43mになっている。南北にそれぞれ入口があり、上に行くにしたがって階段の段数が減る。塔の内部は空洞になっていて、木造の螺旋階段で上にあがれる。

薦福寺の鐘楼には、金代明昌3(1192)に鋳造された、大きな鉄鐘がかかっている。高さ3.5m、口径2.5m、周囲の長さ7.6m、重さ10トン。毎朝決まった時間に鐘が鳴らされ、その澄んだ音色は、10里はなれた所でもはっきりと聞こえる。鐘の音は大きく、塔は秀麗で、「雁塔晨鐘」と呼ばれて、関中八景の一つになっている。

慈恩寺と玄奘に強いつながりがあったように、薦福寺からは、唐代のもう一人の高僧、義浄が思い起こさせられる。義浄もインドへ留学し、695年に帰国、サンスクリット語の経典400部を持ち帰った。長安へ帰ってから、薦福寺で翻訳作業を仕切り、経典56部、230巻を共訳し、玄奘以後、仏教学上最大の功績を残した。義浄法師は、インドから持ち帰った佛教経典を保存するために、朝廷に薦福寺塔の修築費用の援助を求めた。皇帝李顕はきわめて小心者で、皇后がすべての実権を握っていた。皇后は義浄の話を知って、后宮、側室、宮女らに呼びかけて、寄付金を募り、塔の修築を行った。

大興教寺(ダイコウキョウジ)

興教寺は西安から20キロ離れた長安県の少な陵原にあり、近くに樊川を望み、神禾原を隔てて、遠く終南山を眺望する高台にあります。この寺は玄奘三蔵法師の遺骨を移葬し、供養するために、唐の第三代皇帝高宗によって総章二年(669年)に建立された有名な寺である。

玄奘法師は唐の麟徳元年(664年)に入寂した。当時、玄奘の遺骨は西安東郊外の東鹿原に埋葬されていたが、あまりにも皇身やに近く、それを見るたびに心を痛めた高宗皇帝は総章二年になって樊川少陵原のこの地に改葬した。その後、唐の粛宗皇帝李亨がこの寺に参拝した際に「興教」という題字を書いて掲げたので、以来、この寺は興教寺と呼ばれるようになった。

境内には玄奘三蔵の墓塔を中央に、その高弟の窮基の墓塔と円測(朝鮮人)の墓塔が左右に立っている。二人の高弟の塔は恩師に会釈するかのように少し前傾している。この寺は三基の舎利塔があるため、名高く、また、樊川八大寺院としても知られている。当時は寺に立派な塔、殿、堂、楼などが建立されて美しい寺だった。

今、木立に囲まれた静寂な境内に高さ23mの玄奘舎利塔をはじめ、大雄宝殿、法堂、蔵経楼などの伽藍があり、美しいたたずまいとなっている。大雄宝殿には本尊釈迦如来坐像があります。この金銅仏像は清代のもので、台座は三種の千体仏でできた珍しいものだ。また、この中に多くの仏像が祀られている。法銅の須弥壇には、まず本尊の前に安置されている高さ30cmの小さな清代の白玉仏がある。釈迦三尊は上下二段があり、上段は明代のもので、この寺で最も古い像だ。また。西方三聖像、観音菩薩像、清代の彩色仏画中国仏教八大宗派の歴史の説明書もある。蔵経楼は二層の建物で、その二階には宋代に印刷された一万巻近くの大蔵経などの仏典が納められている。

 

 

草堂寺(ソウドウジ)

 

1500年以上の歴史を有する日蓮宗の名刹。境内は広くて静寂である。竹林に覆われたその一角に、古い温泉の井戸がある。その湯気が立ち上る秋冬の朝夕の景色は霞水に包まれている。昔の人はこれを草堂煙霧と呼びんでいた。「関中八景」の一つに数えられている。

現在の草堂寺も人々の注目を浴びる存在だ。仏教文化の発祥地としてはもちろん、自然の景色の素晴らしさにも深い感銘をうける。東は?水、南は圭峰にのぞみ、渓流が流れ、木々や草花などの田園風景がとても美しい。

特に秋冬の日の出や日暮れ時は草堂の上から圭峰にまでもやが立ち込め、水墨画のようなその幻想的な風景には陶酔させられる。「草堂煙霧」は「八景之一」にあげられる。

楊貴妃墓(ヨウキヒボ)

世界三大美人の楊貴妃(西暦718年~西暦756年)のお墓である。西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にある。

西暦745年に玄宗皇帝の寵愛を受け、貴妃となった。玄宗は楊貴妃の美貌を愛し、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかってしまった。755年に起こった【安氏の乱】で、楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けたが、途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きた。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求 した。玄宗皇帝は涙に暮れながら宦官、高力士に楊貴妃を絞殺せよと命じた。時に38才。子供もないままに死んだ彼女の一生は「花の命は 短くて 苦しきことのみおおかりき」という詩の通りだ。玄宗は楊貴妃を簡単に土葬して四川に逃げ、危難を避けました。

昔、楊貴妃の墓は土盛りだったが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせた。その白粉を顔に付けると美人になるという噂が広がって、大勢の若い女性がその白粉を欲しがり、墓へ取りに来た。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまった。
現在の墓は半球状のレンガで覆われていて、墓前に「楊貴妃之墓」の碑があり、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、献じた30基の詩の石碑が収められている。

茂陵(モリョウ)

陜西省興平県の県城東方15kmにある。茂陵は前漢の第7代武帝劉徹(在位前141~前87)の陵墓で、前漢の皇帝の陵墓では最も大きい。渭河北岸の台地上に東西に点々と造営された前漢帝陵のうち、最も西に位置している。武帝即位の翌年から造営に着手し、53年の歳月と毎年の税収の3分の1を費やして完成させたと言う。

咸陽博物館からタクシーで茂陵博物館まで、30分、30元。門前には露店7.8軒が手持ち無沙汰に果物を売っていた。門亭を入ると回廊式の池があり、その上段に霍去病の墓がある。1978年に霍去病墓の所在地に茂陵博物館を開設した。

かっては400m四方の城壁が築かれ墓を守護する兵舎があったと言う。霍去病の墓は堂々とした造りで霍去病の碑字を撫でると病気が治ると伝説され、観光客が碑字を撫でるので碑が光っていた。

霍去病墓の両サイドに、漢代の匈奴との戦いで、馬が匈奴を踏みつけている、有名な石馬が威厳も凛として圧倒される。霍去病は武帝時代の卓越した将軍で、6回に及ぶ匈奴との戦いで目覚しい功績あげ、若くして驃騎将軍となった。叔父の衛青と共に匈奴との戦いは「史記」にも詳しい。前117年、霍去病は24歳の若さで世を去った。

法門寺

法門寺(ほうもんじ)は、中国陝西省西安市の西120km扶風県法門鎮にある古刹である。

北周以前には阿育王寺と呼ばれ、その塔は阿育王塔と呼ばれていた。北周の武帝廃仏によって、当寺もまた廃毀された。

朝が興ると、文帝は仏教を尊崇し、当寺も再建されたが、北魏時代の結構を回復するこはできず、また寺の名は成実道場と改められた。その後、隣接する宝昌寺に編入された。

には既に、阿育王塔が古代インドアショカ王が全世界に建立した八万四千の塔の一つであるという信仰が根付いていた。武徳元年(618)には、寺を宝昌寺から独立させ、寺の名を法門寺と改めた。

貞観5年(631)に、張亮によって塔が修復され、顕慶5年(660)には、高宗が宝塔内の仏舎利を東都洛陽の宮中に迎えて法要を行なった。併せて塔の修復も行なった。これは、その仏舎利を30年に1度だけ開函し、供養したならば多大な功徳が得られ、国家安泰を得るという伝承を受けたものである。ただ、この事業を推進した立役者は武則天であると考えられている。

その後、則天の子である中宗は、阿育王塔に対して、真身宝塔の名を奉っている。また、中宗の皇后で「武韋の禍」で知られる韋后らは、髪をおろして塔に施入している。景龍4年(710)には、寺名を聖朝無憂王寺と、塔名を大聖真身宝塔と改めている。

元和14年(819)には、憲宗が仏舎利を長安に迎えることを計画し、それに対して韓愈が「論仏骨表」を上提して、その非を訴えた。が、受け入れられず、仏舎利は盛大な法会と共に長安に迎えられ、韓愈は広東省に左遷された。

開成3年(838)には、寺名を法雲寺と改めたが、短期間で法門寺に復している。

会昌の廃仏の時には、法門寺も被害を受けたが、懿宗代に盛大な法会と共に仏舎利を長安に奉迎し、法門寺を盛大に修復した。

19568月には、第一批重点文物保護単位として認定されたが、文化大革命時期に、紅衛兵によって諸堂や諸像が破壊された。時の住職であった良卿法師は、宝塔や伽藍を守ろうとして真身宝塔前で焼身を図り、その他の僧侶らも殺戮され、寺は「扶風県無産階級造反派臨時総指揮部」となった。

1979、陝西省が大雄宝殿と銅仏閣を修復した時、地中から唐代の遺物が出土した。

198184夜半、真身宝塔の半分が大雨によって崩壊した。1985、陝西省政府が真身宝塔を再建することを決定した。198743、真身宝塔の地下にあった地下宮殿が開かれ、稠密な彫金を施した幾重もの宝函に収められた4粒の舎利などの大量の貴重な文物が出土し、歴史考古学上の一大事件となった。遺物の大半は、懿宗代に奉納されたものであった。塔は198810月に竣工し、同年119に法門寺博物館が開館した。

乾陵と乾陵博物館(永泰公主墓)(ケンリョウ ケンリョウハクブツカン)

西安の西北約80km、陜西省乾県の県城の北方6kmの梁山にある。数かずの石像に守られ、唐3代高宗、李治(在位649 683)と女帝武則天(在位690 705)の合葬墓。海抜1047mに位置して、広大な規模で、気迫がみなぎる。最も代表的な唐朝の陵墓。               

山沿いに築き、二重の周壁をめぐらし、四面に闕門と大型の石刻を置く。684年に高宗がここに葬られ、706年に武則天が合葬された。地下宮殿は盗掘に遇っていないと言う、未発掘である。曽は城壁で囲まれ東西南北に門があったが、今は南門に一対の華表がある。          

門外には一対の豪壮な石獅子がうずくまり、南側には、高宗の葬儀に出席した、諸蕃族の酋長と、外国の使者の石人61対が袍を着て拱手する姿で左右に林立するが、後世の破壊で頭部はすべて欠けている。一説では、清朝の時、旱魃がこの地を襲った。それはこれらの外国人タタリだとして村民が首を打ち落としたと伝説が残る。

乾陵周辺には、高官やその近親者の墓が多く、なかでも則天武后の怒りに触れ、17歳の若さで没した悲運の少女、4代中宗の第七女、永泰公主の墓には、色鮮やかな女官の壁画が描かれている。永泰公主の壁画は、奈良の松塚壁画のモデルといわれている。 

西安興慶宮公園(セイアン コウケイキュウコウエン)                      

興慶宮は今西安で一番大きくて、有名な公園だ。
西安市の城外、東南郊外にあり、唐代の興慶宮の一部だ。

昔の興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。
その後、皇帝や貴族たちがよくここで歓楽を尽くした。

特に玄宗皇帝が728年に興慶宮で正式の政務を執りはじめてから、
ここは大明宮に代わる唐代の政治の中心地だった。

また、玄宗皇帝は楊貴妃と共に長い間ここで酒と歌舞に明け暮れ、生活を欲しいままにしていた。

745年~756年までのことだった。
唐代の興慶宮の面積は135ヘクタールだったが、
今の面積は50ヘクタールに過ぎません。

阿倍仲麻呂の記念碑は興慶宮公園にある。
これは、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、
1979年7月1日に立てられたものです。

大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩と当時の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ掘られている。

阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に来た。


彼は国子監(大学に相当)で一所懸命勉強し、
当時最難関とされていた進士の試験に合格し、
唐王朝の官吏となり、752年に今の国立図書館館長に当る職にも就いた。

こうして、彼は長安で35年間生活したが、
祖国日本および親類を偲ばないことはなくて、
小倉百人一首で有名な短歌を作った。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」

仲麻呂は753年6月、
玄宗皇帝の指示で唐王朝の身分のまま遣唐使の藤原清河、副使吉備真備と共に長安を離れ、
帰国の途についたた同年10月15日仲麻呂は楊州で鑑真和尚を表敬訪問し鑑真を日本に誘った。

11月15日、仲麻呂は藤原清河と第一船に、鑑真は第二船に、吉備真備は第三船に、他の人は第四船に乗船して蘇州を出発した。
渡航は困難を極め、12月6日沖縄を横切る途中で暴風雨に巻き込まれ、大部分の人が遭難してしまった。

かろうじて生き残ったのは仲麻呂など十数人で、仲麻呂は暴風に任せ、ベトナムに漂流し、中南島に上陸した。

そして、あらゆる困苦辛酸を嘗めながら二年後の天宝十四年六月(755年)に再び長安に戻った。


この年、安禄山の乱が起こり、その後、彼は玄宗皇帝に従って蜀州へ行き、757年12月、再び玄宗と共に長安に戻った。

その後も唐王朝の高級官僚として長安で活躍し、
770年、73才で亡くなりました。

 

五丈原(ゴジョウゲン)

 

五丈原は宝鶏市の東90km。岐山県の県城から南25km宝鶏市の蔡家坡にある。諸葛孔明が宿敵魏との戦いのさなかに陣没した場所である。


下からの登り道が見える。かなりきつそうだ地図を見ると、海抜120m余り、北に渭河を望み南は秦嶺の盤棋山が控え東西は峪になっている。面積12㎡の高台で今は一面の畑地としてキビや麦が植えられていた。

蜀の諸葛亮は6回祁山を越えて布陣した。建興12年(234年)春、諸葛亮は大軍を率いて第5次の魏の討伐に向った。諸葛亮が渭水の南岸に陣を構えると、漢中は大騒ぎになった。魏の明帝(曹叡)は晉の宣王(司馬懿)が蜀の軍に対して、迂闊に戦いを仕掛けることを、ひどく心配して、

宣王を抑えて慎重に対処させようとして、辛毘を軍の司馬として派遣した。宣王は諸葛亮と渭水を挟んで対陣しており、亮はありとあらゆる挑発を試みて戦いに引き込もうと策した。宣王は果たして大いに憤り、大軍を差し向けて応戦しようとした。亮がスパイを放って敵情を偵察させたところ、戻って来て報告した。

「一人のじいさんが、胸をはって黄鉞をつき、軍門に立ちはだかっているので、司馬懿の軍隊は出動できずにおります。」亮は言った。「それは、紛れもなく辛佐治(辛毘)だ。   「世説新語」

しかし、布陣して魏の軍師司馬懿と対峙すること100日余り、孔明は無念にも病没した。享年54歳であった。蜀軍は南に退却したが、司馬懿は諸葛亮の計略ではないかと恐れ、これを追撃しなかった。「死せる孔明生ける仲達を走らす」とは三国志愛読者のみならづ胸を躍らせ読んだ記憶がある。のちに人々は諸葛亮を記念して、此処に祠廟を建てた。

諸葛亮廟(ショカツリョウビョウ)
北端に諸葛武候祠がある。諸葛亮の政治的手腕と軍事的才能を称えて元時代の始め頃に建てられ、明清時代に修復されたと言う。山門をくぐって色鮮やかな廟内に入ると、正殿中央に孔明の塑像が安置されていた。

鐘鼓楼献殿八卦亭東西廂碑廊などを廻と姜維や揚儀など蜀の名将たちの塑像も据えられている。

 

清代の楹聯と扁額を掲げ、詩詞の碑碣が多い。献殿の壁に岳飛(1103-1141)が筆写した前後両篇の 「出師の表」を彫った清代の40枚の石碣を嵌め込んである。見事な文物である

 

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