三国時代と三国志
三国時代とは今から1800年前の西暦200年ごろに中国大陸でおきたいわば内乱時代を指している。正確には、184年の黄巾の乱から280年に呉が滅びるまでの約100年間。
(日本は弥生時代、ヨーロッパではローマ帝国の時代)
三国志の三国とは、魏・呉・蜀。
漢王朝が衰退して、各地で群雄が割拠して、その中で魏・呉・蜀の3つの国が生き残りました。
各国の君主
【魏】曹操(そうそう)
冷血だが優秀で目的にむけて猛進する。
有能な部下をきちんと登用する姿勢は織田信長に重なるところ。
【呉】孫権(そんけん)
親・兄から受け継いだ国を堅実に経営する。
【蜀】劉備(りゅうび)
人徳があるため人が集まってくる。
日本でいえば豊臣秀吉か。
【あらすじ】
西暦184年、中国の後漢王朝は粗悪な政治で乱れていた。
これの反動として起こった反乱が、有名な黄巾の乱である。
曹操、そして劉備は反乱の鎮圧に官軍として参加し、活躍。
反乱は鎮圧されたが、漢王朝は末期を迎え、諸侯が力を持ち、勢力争いをはじめる。
その筆頭に踊り出たのが曹操である。
皇帝をおさえて、皇帝の名のもとに次ぎから次へと近隣の諸侯を下していく。(やがて魏地方の王を名乗る)
中国大陸の北半分をほぼ手中に収めた曹操は、天下統一にがぜん優位にたっていた。
それに対抗したのが、漢の皇帝の血統をひく劉備。
そのときまだ国を持たない劉備は、関羽、張飛、超雲、諸葛亮など、名だたる
武将が配下にいたものの、敗北続きの転戦を重ねる。
曹操の攻撃にあっけなく粉砕されてしまう。
曹操は、南東にある孫権の呉へと侵攻を始めるが、ここで劉備と孫権が手を取りあり共同戦線を形成。
圧倒的優位にあった曹操を、赤壁の戦いで見事に打ち破った。
息を吹き返した劉備は、蜀(現在の四川省)を乗っ取り、諸葛亮が想定していた三国鼎立の形を実現させた。
3国のお互いが拮抗することで膠着状態に突入。
圧倒的に劣勢であった劉備は、その状況下で戦力を整えられたことで、中国は三国時代に突入した。
蜀には、関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠などの猛将のほか、諸葛亮やほう統という智将もおり、人材は豊富であった。
また、土地も肥沃であり、その期間、蜀はよく栄えたものの、劣勢は変わらず。
桃園の誓いで義兄弟になった劉備、関羽、張飛は、結局、
関羽が呉の将軍、呂蒙との戦いで戦士、張飛も部下に寝首を掻かれ、
劉備も呉への復讐を志したが半ばにして倒れ、3人の漢王朝復興の夢は消えていった。
また関羽が死んでまもなく、持病の頭痛の悪化で曹操も病死している。
劉備の死後、その夢を継いたのが諸葛亮である。
しかし、人材を欠いた蜀には有能な将軍もおらず、諸葛亮も魏との戦いのさなか、結局、病死してしまう。
もともと蜀(四川省)は山深い土地で天然の要害になっている。
魏や呉が積極的に攻めることはなかなかできず、諸葛亮の死後も蜀は長く持ちこたえたが、宦官政治で国内が乱れきった末、魏に降伏をして滅亡した。
魏は蜀降伏の2年後、力をつけていた司馬一族(晋)により滅亡。
呉でも、孫権の孫の孫皓が、残虐政治を行ったので、政治が乱れ、同じく晋に滅亡。
西暦280年 中国は結局、三国ではなく新王朝・晋によって統一された。
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