中国と言えば、万里の長城と思います。万里の長城と言えば、秦の始皇帝を思い出します。中国を初めて統一した皇帝で、始まる皇帝という意味で、秦始皇帝または秦始皇と名付けられています。
今日は西安観光スポットの秦始皇帝陵及び秦始皇帝を紹介させて頂き、皆様の西安旅行にお役に立ったら、幸いだと存じます。
秦始皇帝は(しんしこうてい、紀元前259年1月 - 紀元前210年7月)は、中国秦の王ないし皇帝です。姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)です。現代中国語では、始皇帝(シーホワンディー、Shǐ Huángdì)または秦始皇(チンシーホワン、Qín Shǐ Huáng)と言います。
もともと秦の王であり、紀元前246年 - 紀元前210年の間在位して初めて中国を統一し、紀元前221年から中国史上はじめて皇帝と称しました。
政の容貌や性格について、史記には「鼻が高く、目は切れ長で、声は豺狼(ヤマイヌ)の如く、恩愛の情に欠け、虎狼のように残忍な心の持ち主」と記載されています。
紀元前246年、荘襄王は死に、13歳にして政が秦王となりました。秦は六国の韓趙魏楚燕斉を次々と滅ぼし、紀元前221年中国を統一しました。
戦国時代には、七国の君主すべてが王を名乗っていました(ただし一時期、秦王が西帝、斉王が東帝と称したことはありました)。統一という大事業を成し遂げた後の新時代には、そのような旧来の称号はふさわしくないと考えた政は、家臣たちに新しい称号を考えるように命令しました。
家臣たちは、「むかし天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、泰皇(たいこう)の三皇がおり、その中で泰皇が最も尊かったといいます。陛下はこの泰皇の名を取り、新しい称号にすればよいと存じます」と言いました。しかし、政は以前にあった名前を使うことが気に入らず、「泰皇の泰を取り、太古の帝号を付け皇帝と号することにする」と宣言しました。
このときに併せて王命を制、王令を詔、天子の自称を朕(後に真人に改めました。ただし、使用は始皇帝のみで、彼の死後、再び朕に戻されます)と呼ぶことに決めました。更に、諡号の制度は子や臣下が先君を批判することになりますので、不敬ですからと廃止することに決め、以後は自分を始皇帝とし、二世皇帝、三世皇帝...万世皇帝と永遠に続けていくとしました。
始皇帝は、民間人の武器所持を禁じ没収し、中国が一つになったことを宣言するために、それを溶かして巨大な像を作りました。さらに度量衡(度(長さ)量(体積)衡(重さ)の単位)、貨幣、車の幅を統一(『軌を一にする』の故事)した。また文字では、秦で使われていた漢字を全国で使うように定めた。そして行幸を重ね、全国の交通の整備を進めました。
始皇帝は大土木事業を好み、これが外征への負担と並んで民衆を圧迫したため、暴君とされる理由の一つとなっています。ただし、万里の長城建設は必要性の高い事業でした。匈奴は始皇帝の少し後の時代に冒頓単于が立って強大になり、秦を倒した前漢に大勝しています。その前から匈奴が強勢になりつつあったからこそ、長城を築き、蒙恬に討たせたと言えます。
しかし、首都咸陽の大拡張工事、美女を三千人集めたという阿房宮(「阿呆」の語源と言われる)、1974年に一部分である兵馬俑が発見されて、あまりの巨大さに研究者を驚倒させた始皇帝陵の造営などは、必要性に欠けました。財政に負担をかけ、その人夫徴用から陳勝呉広の乱が生まれたことからして、秦の崩壊の直接的な原因であると言えます。
13代王朝の西安市の東50キロの郊外・臨童区には、西安の世界遺産の兵馬俑及び秦始皇帝陵があります。兵馬俑は皆様方良くご存じだと思いますが、秦の始皇帝陵は高さ47メートルで、36年間、70万人掛けた大土木工事でした。今、発掘していないですが、司馬遷の『史記』によりますと、その下には地下宮殿があるそうです。生前と同じく作られ、当然のことながら、金銀財宝とか、水銀で、作った川など、なんでも埋葬されているそうです。兵馬俑もその埋葬品のごく一部分にすぎないそうです。
兵馬俑・秦始皇帝陵などの詳しい西安観光案内は下記のアドレスをご参照ください。
http://www.tasaixa.com/content.asp?D=226